使用言語によって思考は影響を受けているというサピア・ウォーフの仮説は、そうだなと思うところも多い。
英語と日本語を考えてみると、お互いに発音や文法、文字の形がまるで違う。英語はアルファベット26文字に対して、日本語はひらがな・カタカナ・漢字。結論が最初にくる英語に対して、日本語は最後に結論。言語間の距離がお互いに遠いという性質がある。もう極端に遠い。
ということは、英語と日本語では思考が全く異なるという前提がそこにある。
当然、それに基づく文化や風習も異なる。
だから、日本語にはある感覚が英語にはない。その逆もある。
「おつかれさま」や「いただきます」などの日本語にぴったり合う英語表現がなかったりする。日本語の感覚を全て英語で表現できなくて当たり前で、それでいいと思っている。
歩み寄っておそらくこんな感じだろうなとお互いに思っているのが現実。
全体的に社会構造が似ている国々同士では感覚的に理解できる要素が多いという面があるが、完全性にはほど遠い。不完全な世界の現状。それが本質と考えている。
他言語を学ぶ時に、言語学者は”多様性の寛容”が必要だと言っている。
動詞の過去形は終わりが「〜ed」になるものが多い、過去分詞も「〜ed」。eatやgetなど、それに当てはまらない動詞もたくさんある。そこには明確な理由がない。ただそうなっている。
言語は数学ではない。回答は複数ある。「なんとなく」とか、「アバウトな感覚」を受け入れるのが大切。正解を求めないし、求めてもしょうがない。文法の法則性や規則性も一見あるようで、実は例外も多かったりする。実際、文法書によって解釈が異なったりしている。
それでも世界の人達はコミュニケーションを取ることができている。
日本にいると、言葉はきちんと話さなければならないと無意識に考えてしまう。
世界に出たら、正しさよりも伝えることが重要。正しさは後回しという現実がある。実際、身振り手振りで、restaurant, go とだけ言えば、「この人はレストランに行きたいのかな?」と相手は理解してくれる。
実際のコミュニケーションの中で、言語の役割は10%ないとも言われていて、それ以外は言葉以外のジェスチャーだったり、顔の表情だったりする。非言語コミュニケーションの役割が非常に大きい。
だから、口元だけで意思疎通をするというよりも、身体を使って伝えるということが必要なのだが、どうしても頭だけ使って、言葉だけを駆使してコミュニケーションしなきゃと考える傾向が日本人には特にある。
日本の識字率はほぼ100%。標準語は東京の山の手言葉がベースなので、地方から東京に来ると話す言葉が矯正される。美しい日本語を話す、書くというブームもあり、言葉は限りなく正確に話せないとダメというように日本人は無意識に思っている傾向がある。
正確さはもちろん大切だ。しかしそれ以前に、私は◯◯をしたい。とか、私は◯◯と思う。という意思を相手に分かってもらうということが優先で、その為には正しくなくても、先ほどのようにまずはrestaurant, goと言ってみるだけでいい。
すでにその段階で、海外の人は「You speak English.」と思う。全く話せないわけではない。粗くてもいい。出川イングリッシュがその証拠である(笑)。
他人から見られて言葉が下手だと思われる恐怖がただあるだけのように思う。日本だと下手な日本語を話す人は日頃見かけないからますますそう思う。それは外国人とのコミュニケーションにおいては不必要なプライドだ。
まずはなんとなくでも、正しくなくても、不完全性を受け入れて、話してみるということが僕は大切だと思っている。